明日にはZINEフェスが控えている。何も変わらない日常を、安心するでもなく不安になるのでもなく、ただ眺める。緊張しなくなったのも、なんだか寂しいことなのかなと思うようになった。
人は何が正解なのか、急にわからなくなる時がある。自分の好きなことをして有名になった人を見ても、どこか満たされない、寂しそうな顔をいつもしている。かと思ったら、小学校の警備員のおじさんが毎朝嬉しそうに挨拶している日常も見かける。どうやら、幸せのテンプレートなど存在しないのだということを、この歳になって知った。
少し力を入れれば壊れてしまうもの、その気になれば全部壊せるもの。でも壊さないのは本当に愛なのか。ただ僕らが怖がっているだけなのではないか。そんなことを日々考える。
何気なく聴いている音楽。繊細になりすぎた心は、デジタルを通じて現れた誰かの言葉にすら、温度を感じるようになってしまった。それもまた、寂しいことだなと思う。
パカパカの携帯電話で、両手で文字を打ちながら好きな人とメールをしていた頃は、もっともっと、液晶の文字が輝いていたはずだ。
温度が変わらないものを、いつの間にか好むようになった。
うまく言語化はできないけれど、ずっとそこにいてくれるような安心を感じるもの。そんなものをそばに置きたいと思うようになった。
例えば、本。できればハードカバー。ずっしりとしたものだとなおいい。僕の人生の重荷を背負ってくれている気がして、持っていて安心する。本の前では、カッコつけた自分じゃなくていい気がして、裸でいられる。それはきっと、本の方もなんの恥ずかしげもなく、裸でいてくれるからなのだと思う。
ばかばかしいものを、いつの間にか好むようになった。逆に抽象的な、誰にでも言えそうな言葉は嫌いになった。
街のパーキングを横切ると聞こえる、トラック運転手の会話。一人は大きく脚を窓に投げ出し、もう一人は弁当を食べている。そんな二人の会話は、もう何を話していたかわからないぐらいのものだったけれど、体温を感じた。
パン屋にいると、中年女性がいかにもママ友です、という感じで二人で会っている状況に出くわす。ああ、愛想笑いだな、あ、今、適当に相槌したな、その言葉、全く心がこもっていないの分かる。そんなことを心の中で考えながら、隣で執筆していることがよくある。
そういう時に、この人たちはきっと、違うところで幸せがあるのだろうと思う。ここではない、違うどこかで、きっとこの人たちは幸せなんだと、思うようにしている。そうじゃないとおかしいと、やたらと守護の大きな薄っぺらい会話を聞いて、空気に問いただす。
そう言えば、最近あまり写真を撮らなくなった。
理由はよくわからないが、単純に今の自分が「写すもの」に魅力を感じていないからなのだろう。今は物語をつなぐことに、心が魅了されている。きっとまた、写真に帰ってくる時が来る。
物書きをしている人は、歌詞が入った音楽やラジオの再生時間が短いのではないか、ということを耳にした。そうか?と疑問だった。
僕は集中力が高いせいか、周りにどんな音楽が流れていても、書くことができる。むしろ喋ったりうるさくしてくれた方が、いいかもしれない。それは多分、幼少期にずっとリビングで勉強していたことから、始まっているのかもしれない。
音が鳴っている、誰かの声がする。そんなうるさくて体温が感じられる空間にいないと、死んでしまいそうな自分。なんて弱いのだろうと思いながらも、その弱さから染み出る何かを自分でも見たいと、ひたすらに書く。
心にいつまでも残るのは、文字や形ではなくて、感覚だなと思う。
ふと、原田マハさんの「生きるぼくら」を読んだ後に、Netflixで前に見たグラスハートの投稿を見つけて思った。あんなに感動したグラスハートの映像が、思い出せるけれど思い出せないみたいな、本質はそこじゃない気がした。あの時の高揚感というか、わくわく感、心の中に動くものがあって、それを覚えている気がする。
別に何が言いたいわけでもないが、小説は読んだ瞬間から文字を忘れてしまうものだと感じた。原田マハさんの文章は、読んでいてすごく温かくなる。心の中に、太陽が灯った感覚がある。その温かいものを求めて、読む、というよりは、そこにずっといてくれる感じがある。それは、本から感じる「体温」なのかもしれない。
映画の宣伝を見る。自分は行きたくないと突っぱねる。足のせいにして行かないことにして、その作品を心の中で陳腐なものにする。
「この人もどうせ」という枕詞を添えて、自分から遠ざける。本当は見に行きたい自分がいることも知っている。そして、行こうとしたら障壁がいろいろあることも知っている。
だから僕は、映画があまり好きではない。あの階段、あの暗闇、それを乗り越えたものだけが享受できますよと、暗黙に言っている映画というものが、好きになれない。Netflixで見る映画も、なんだか見せられている感じがして、好きになれない。
朝になった。
いつものカフェで少し前から「ラムラテ」というメニューが出たのだが、まだ勇気が出なくて頼めないでいる。アルコールが入っているらしく、酔っ払うわけないのに、何かを心配してしまう。結局は今日もアイスコーヒーになった。
朝8時半ぐらいにも関わらず、パン屋は相変わらず混んでいる。隣に座っている女性二人が「わたしたちなんて優雅なの~」と言っている。そうか、この生活は優雅なのかと気付かされる。当たり前になりすぎて、ここがちょっと優雅な店であることを忘れていた。一般的に見ればかなりオシャレな方だ。
アイスコーヒーが運ばれてきて、今日も一日が始まったことに安堵する。
onyoroさんのエッセイ(すごく平和なゆるい感じのエッセイ)と、米津玄師の音楽がミスマッチすぎて、思わず一人で笑ってしまった。ショートケーキを大きく頬張るとか書いてあるのを読みながら、JANE DOEが流れている。こりゃあ、こりゃあ、と思って、本を閉じた。
隣に会社が同じ二人っぽい人たちが、いや、多分「久しぶりですね!」と言っていたから、どっちかがやめて、元々同じ会社なのだろうか、とにかく声が大きい。まあでも、すごく二人とも優しい顔をしていたので、悪い感じはしない。会社員ならではの店舗のいい会話に、漫才を見ているような気分になる。
こういう人たちを目の前にすると、そう言えば自分は働いていないんだと気づく。どうやら隣の男性は、上場を目指している会社の代表らしい。そうかあ、そうかあ、と思いながら、大きな声の二人の話を一緒になって、うんうんと聴く。そう、自分は働いていないんだと気づく。
もう劣等感とかは感じなくなった。働いていないことが当たり前すぎて、老後のような生活をしているし、友達を増やすとあまりのゆったりとした生活を妬んでくる人が増えるので、人にも会わなくなった。この二人は、こんなに生き生きと話しているけれど、しっかりと幸せなのだろうか。「AI」というワード、「事業計画書」というワード。確か僕も社会人一年目ぐらいまでの時は、こういう人たちと気が合っていた。
いつの間にか、僕の心地がいいところを見つけられることができて、よかったなと思う。
瀬尾まいこさんの「そんなときは書店にどうぞ」というエッセイを読み始める。さすが関西人、エッセイの中のツッコミにキレがあり面白い。東京に住んでいる僕にはない話の切り込み方で、あっという間にページが進む。エッセイの中に書いてある出版業界のことを読んで、そうかあ、作家さんは新刊が出たら書店を回らないといけないのかあ、と思って、自分はちゃんと回れるだろうかと少し不安になる。まだ作家にもなっていないのにね。
隣に座っているビジネスな二人は、相変わらずカタカナを並べている。反対の隣では、女性3人がパンを囲んで、めっちゃうまいと言っている。ああ、こういうのが土曜日だよなあと思う。そう、今日は土曜日だ。
今まで、高学歴であればあるほどいいと思っていた。そして、その固定概念は、会社員になってから和らいできたが、まだ拭えないままでいた。でも最近、学歴ってマジで関係ないな、と心の底から思えるようになって、そんな自分が好きになった。いい意味で、人生の幸せの形って、人それぞれだよなと思った。隣のビジネスな二人の話を聞いていると、高学歴って、怖いなあと思った。この人たち、小説とか読まないんだろうなあ、くまのプーさんなんか見ないんだろうなあと、ちょっと怖気付く。土曜日のおしゃれなパン屋で、事業統合やら何やらかあ、と考え、少し気持ちがげんなり。すかさず反対の隣の、パンケーキを仲良く頬張っている三人に耳を向ける。福袋、ホットドック。なんの話だろうと思って聞いていると、どうやらサンマルクの話らしい。へえ、サンマルクって福袋なんかあるんだ、ん、セルフレジ?福袋をセルフレジで買うって?そりゃ風情がないね。なんてことを心の中でツッコミながら、こちらは楽しく聴くことができた。世の中、似たような人たちが仲良くなるものだなと思う。女性三人の甲高い笑い声が、心地よく感じる。
午後になった。
昼下がり、わんこの散歩が終わったぐらいの時間に、今日2本目のタバコを吸う。ゆったりと流れていく雲を見つめながら、吸って、深呼吸して、ぼんやりと時間を過ごした。
母親にタバコを吸い始めたことをLINEで伝えたら、「ウケる」と返ってきた。ああ、私と同じになるのね、とでも言いたげな感じで、「お互い火のもとには気をつけましょうね。」なんて言葉が返ってきた。少しビクついていた自分がいたので、安心した。
15時が終わる頃ぐらいに、近くのコーヒースタンドに来た。一人になりたいとき、何も気にせずコーヒーを飲みたい時に、ここに来る。20センチほどの正方形のサイドテーブルには、買った豆とマグと本が置かれていて、まるでそこに人生が詰まっている感じがした。もうすぐここに、タバコも加わるのだろうか。
ブクログのアプリの新刊情報を見るのが楽しい。新しい本が出るということはいいことだ。というか、世の中には毎日こんなにも多くの本が送り出されているのかと思うと、びっくりする。意外と小説の新刊はあまり出ていなくて、漫画やビジネス書が主なのだが、たまに好きな作家さんの新刊を見つけるとわくわくする。そして、Amazonで予約する。
新刊情報は、スクロールを繰り返しても永遠と表示された。なんだか楽しみを前借りしてしまっている気がして、3月の新刊が見終わったところでスクロールを止めた。
夜になった。
ふとタバコを吸いながら夜の空を見ると、生きている感じと寂しい感じが混ざって、訳がわからなくなった。とは言っても意外と取り乱してはいなくて、大きく息を吸って深呼吸をして、網戸越しに見える薄明るい部屋の中を見渡した。今まで真面目に生きてきたことを取り返すように、タバコを吸った。
これは寂しさともまた違うかもしれない。様々な小説を読んでいると、色々な感情が心の中に溶け込んでくる。その感情を味わっては、また咀嚼して、ゆっくりと読み進める。人生の中でとても贅沢な時間だと思った。母親からいつかのプレゼントでもらった、殿堂の首筋のマッサージ機の電源を入れて、首に巻いた。ブーンブーンと鳴りながら、その機会は動き出し、僕の首をマッサージしてくれる。なんとも、操られている感じがして、心の中で笑った。
世の中を見ると、もっともっと適当に生きている人はたくさんいるのに、どうしても真面目に生きてしまうのは、学生時代の勉強の過程にある気がする。それもまた一つの後悔か、と思いながら、頑張っていた時の感覚の記憶を辿る。あのときは、こんなに平凡な生活をするなんて思ってもいなかっただろうに。別に平凡が悪いとは思っていないけれど、自分の心の中には少なからず野望のような欲求がある。邪魔、と言えば邪魔だが、だからこそ楽しんで書いているところもあるから、なんとも言えない。さっき淹れたコーヒーが、やけに温く感じる。
なんだか、作家みたいな生活をしていてウケるなと思った。朝にぼやぼやと起きて、小説を読んで風呂に入ってタバコを吸って、カフェに行って犬と散歩して、また吸って。夜になったら部屋の明かりを消して、コーヒーを淹れてまた吸って、書いて。ウケると言ったけれど、もしかしたらずっと、僕が望んでいたことだったのかもしれない。
人の汚いところを知らないことを、勝手に引け目に感じていた。色々なドラマや小説を見ても読んでも、自分が知らない世界ばかりで、なんだか嫌だった。自分は恋愛もほとんどしたことがないし、青春だってあまり。人としての深みなんてこれっぽちもなくて、他人の物語を見聞きするたびに凹んでいた。
タバコは、そのやるせなさから解放してくれた気がした。タバコを吹かして、夜の空を見上げたら、真面目じゃなくなれる気がした。自分が汚れている感じがして、嬉しかったのかもしれない。部屋を暗くしてドラマを見ながら、チョコを食べて寝転んで本を読んで。それで飽きたらベランダに出て吸う。そういう時間が、今まで愚直に生きてきた自分を救ってくれている気がした。なんだか、可笑しくなってきた。読んでいる本を、机に乱雑に放った。
知らない世界が多くて、自分に自信がなくなる時がある。身を投げ出して、走って、行きたいとことに行って、会いたい人に会って、やりたいことをやるために駆け回っている、そんな人が羨ましい。自堕落な生活が心地よくて、ずっとここでいいと思っていても、東京は相変わらず眩しいほどに輝いている。それを埋めるように、縋るように、本とかそういうものに人生を預ける。本当は自分に自信なんてないことを、自分が一番よくわかっているはずなのに、もう誤魔化しすぎて、逆にわからなくなってしまった。そして、全てがどうでも良くなってきた最近は、人の汚いところが好きになれるようになった。
外に出て、四本目のタバコを吸う。吸い終わる頃に、大きな風が吹いた。これは追い風なのかなと、考えられる余裕があって、なんだか嫌な感じがした。
