今日はなんだか、朝に書きたい気分だった。我が家のわんこは相変わらず元気で、今はおトイレをするのを待っている。そんな中で、友人が書いたエッセイ本に手を伸ばす。買ったはいいものの、わんことの生活でなかなか本を読む時間が取れていなかった。
少しだけ本を読んで、カフェに来た。そういえば、わんこが来てから、精一杯一緒にいることに努めていたから、一人で作業する時間すら取れていなかったと反省し、今カフェにいる。なんだか久しぶりのこの感じ。洋楽を聴きながら、このエッセイを書き進める。
思えば、この一ヶ月、そうだ、今日でちょうど一ヶ月だ。わんこが来てから、本当に自分は頑張っていたと思う。自分では頑張ったつもりはないのだが、わんこのために備品を揃え、不快感を与えてはいけないのと、清潔感のあるわんこに育って欲しいからと毎回のトイレを見守り、散歩には一日二回ほど、カートに乗せて外に散歩する時間は多い時で三回あった。それを毎日、本当に頑張ったと思う。今日が一ヶ月記念ということで、いつまでもずっと家にいるわけにはいかないと感じて、カフェに来た。なんだか久しぶりのカフェは、落ち着かない。
日々の刺激は求めなくなったが、やはり変化がないとつまらないという感覚はある。このまま人生が進んでいって、一体何があるのだろうか?平凡な人生で終わることはいいのだが、平凡な時間が連続することは少し話が違う。せめて毎日、普遍的ではない、なんだかサプライズのような幸せを求めている。これが俗に言うドーパミン中毒、アドレナリン中毒、なのだろうか。だとしたら自分は、ソーシャルメディアに勤しんでいたせいで、完全にその中毒に侵されてしまっている気がする。
現代人が失ってしまったことは、もしかしたら「止まる力」なのかもしれない。ちょうど昨日、さっきのエッセイ本を出版していた友人がインスタグラムのストーリーで、「変化」について書いていたことを思い出す。
なんだか、人生って遠いところで繋がっている気がするのは、自分だけなのだろうか。自分が考えていたことを、近しい人が発信していたりする。人はこれを「共鳴」という簡単な言葉で片付けるが、本当にそんな単純なことなのだろうか。スピリチュアルとかにはあまり肩入れはしていないが、なんだか大きな流れを感じずにはいられない。まあ、こんな抽象的な話なんて、すごくすごくどうでもいいことだと、二十七歳にしてやっとわかった。それよりも何よりも、最近面白いユーチューバーとか、そういう話の方が自分は好きだ。
そういえば、絶対に交わることがない人って、いるなあと、今日思った。マンションのエレベーターですれ違った、金色のチェーンのネックレスをしたお兄さん、茶髪で短髪で、短パンで半袖のTシャツを着ていた。ああ、この人とは一生交わることがないのだろうなあと思った。それは交わりたくないという願望もあるが、何よりも自分の人生と路線が違うなあという感覚。でも、そういう人にも家族がいて、友人がいる。思ったよりも、人ってたくさんいるんだなあ、なんて、当たり前のことを考えながら、カフェに来た。すっきり目のアイスコーヒーが好みで、ずっと通っている。
久しぶりに、小学校からの同級生のインスタを見た。前からお子さんが生まれたことは知っていたが、改めて、わんこを飼い始めた後に見ると、「気持ちわかるなあ」と思った。タイムラインが、娘さんと息子さんのオンパレード。僕は「親バカ」という言葉は褒め言葉だと思っている。命を愛することって、自分が愛される経験、そして愛される努力をしないとできないことだと思っているから。まあ、そんな難しいことなんて気にならないほど、自分の元に小さな命が来てくれたら愛おしくてたまらないのだけれどもね。そんなことを考えていたら、もうお昼になりそうだ。