ゆるく部屋の中に音楽をかける。僕が書くときは、かなり繊細な環境づくりが必要な気がする。自分の体への布団のかかり具合、スピーカーのボリューム、体勢。色々な要素が整わないと、というか整えないと、気が済まない面倒くさい性格だ。
今は毛布の感触が気に食わない。ボリュームも大きい気がする。右手に枕の端が当たる。
全部整えて、すっきりしてまた携帯に向かう。
タイマーをかけると、後半の時間がなんだかむずむずしてしまって、心が焦っているときは30秒前に止めてしまう。
きっとこれでも、ましになった方なのだなと思う。
携帯で書いているのがなんだか今日はしっくり来なくて、パソコンを探す。棚にしまったはずなのにない。ない。ない。もう一回荷物を出してみてみる。ない。ない。ない。そうだ、ローテーブルの下にしまったんだった。わんこが起きてしまった。見つける。パソコンを開く。書く。
やっと快適な環境が整ったと思ったら、急に眠くなってくる。人間はつくづく不器用な人間だなと思う。
でも不器用なりにいいことはあって、久しぶりに開いたパソコンで書く文章は、思ったよりも捗るし、全体が見えているような感じがして、爽快だ。メガネが重く感じる。ルーム用のメガネに変える。
青葉市子さんのエッセイを読んだ。澄んでいる感性が、ちょっと今の自分には眩しくて、数行読んで閉じた。綺麗なものを見たり読んだりするには体力がいるし、心に通すのに時間がかかる。
近づいてきたわんこを抱き上げる。顔を擦りつける。わんこは何も嫌がらずぺろっと答えてくれる。心がちょっと楽になる。
今日の朝は大根おろしでせいろを食べたのだが、大根を下ろしている時になぜか、「お前もか」と大根おろしに向かって言っていた。なんでかはわからないが、面白いと思ったのか、携帯のメモに書き留めた。
日常の細かいところを汲み取ることは難しいねと、昨日の現像のポッドキャストで話していた。くどうれいんさんの星形に出るマヨネーズの短歌を話題にして。自分もそういう細かい日々のふとした面白さを拾いたいと思い、こうしてエッセイを書いていると話した。果たして拾えているのだろうか。
有料のnoteのマガジンを売っている友人を見て、自分がやっていることがお金に変わることはそんなに大事なことなのだろうかと疑問を抱く。僕は自分がやっていることがお金になろうがどうなろうが、あまり興味がないなと、心の中で少しだけその人の悪口のようなことを言う。ああ、また心が汚くなったと、昔の自分なら責めていたけれど、今はむしろ正直な自分でいられることができて嬉しいと思えるようになった。
なんで生きているのだろうかとか、暇な時が少ないからあまり考えなくなった。人はなぜ暇になると、なんで生きているのかを考えるのだろうか。自分だけだろうか。今はそれよりも、歯磨きをしたいという思考で脳内が満たされている。歯磨きをしてこよう。
ポッドキャストの収録が終わって、また原稿に向かっている。太可愛い女の子のYouTubeを見ながら、遠藤周作のどっしりとしたエッセイを読んでいて思ったのだが、どんなに硬くて重くて偉大そうな文章を書いたとしても、可愛い子の前では無力であり溶けてしまうのではないかと思った。男性よ、アーメン。
なんだかんだで、柔軟な人間に育ったなと思う。それは周りを見ていて思ったことだ。他人のことを受け入れられない様を街中や会話の中で見たり聞いたりしていて、自分は柔軟というか、いろんな人がいることが前提で生きているなあと思った。どっちがいいのかは知らない。柔軟だから良いとかは、一概には言えないでいる。でも僕は素敵に育っていると信じたい。
ふと、インスタを開くと、卒業式でパパとママに花を渡している高校生の動画が流れてきた。本当に素敵なことだなと思った。僕がルゥちゃんに花束なんか渡されたら、太平洋よりも多く泣く自信がある。
子育ては、きっと人間と犬で違うところが多いが、共通しているところもあると思っている。どっちが楽とか辛いとか、そう言うことはなんだかしっくり来なくて、同じ命を育ててるとかそう言うのもしっくり来なくて、ただ家族だから、大切だから、と言うことに尽きると思う。そう思いながらする子育ては、必死だし面倒臭い時もあるし、苦しい時もあるけど、圧倒的に幸せが多い。いや、そんなどっちが多いとかそう言うことも話さなくて良いぐらい、幸せな時間が続いている。僕はルゥちゃんがきてから、人生が丸ごと変わったし、関わる人も変わった。とにかく楽しい。そして、もはや犬とか人間とか関係なく、同じ家族として一緒にいる。
家族というのは不思議なものだ。言葉には上手くできないけれど、心が暖かくなる。安心する。ほっとする。そこにいてくれるだけで、全部いいやってなる。