2026.02.27

いい意味でも悪い意味でも、いい感覚も悪い感覚も、全部全部小説を読んでいると入ってくる。まだ序盤なのに、どの本を読んでいても、一区切りつけて本を閉じたときは放心状態になり、物語の延長で生きている感覚がある。自分じゃないみたい。

どろどろした気分が久しぶりで、なんだか痛いような、くすぐったいような、自分の心の黒いところを露わにされた気がして、目を背けたくなる。

さっき読んでいた本は、高瀬隼子さんの「うるさいこの音の全部」。小説の新人賞を獲った主人公の周りの人間が、あからさまにそれを境に色々変わっていく物語。それに伴う、純粋な人間の存在。色々なことを考えさせられる。自分もゆくゆくはそういう存在になるのだから、身の振り方は考えないといけないし、人は簡単に信用してはいけないよなと思う。そして、自分も身勝手に人に近づくことはやめようとも思ったり。そういうことを考えていたら、心がどよーんとしてきたので、おもろいことでも書きたいなと、思考のスイッチを切り替える。

朝になった。久しぶりにしっかりと眠れて安心して起きた。電気を消して、音楽を止めることがいいのかもしれない。動画や音楽を流していると、やっぱり寝つきが悪いのか。でもちょっと寂しいんだよなあなんて、子供みたいなことを思う自分。昨日のコーヒーの残りを飲み干す。

ぼやぼやしている朝だ。わんこをお腹の上に乗せて寝転んでいたら、そのまま寝ていて、起きた時には10時になっていた。わー寝れた、と嬉しかった。頭がはっきりしているけど、落ち着いている。でもどこか、ぼやぼやしている。

小説を書くペンネームが決まった。これからその名前で新人賞に応募する。メディアに出たくないので、名前の公開は控えるけれど、いい名前になって嬉しい。

フォロワーが30人ほどのプライベートアカウントで、その名前を報告する。これから小説の新人賞に本格的に挑戦するという。今までもこういう宣言みたいなものは、人生の中で意識的にするようにしてきた。何故か言えば叶うことが多い。自己啓発的な感じではなくて、体感。5年前ぐらいにやりたいと思って、やると宣言した表現活動。そのとき思い描いていたのも、本を書く、写真を撮る、ラジオをやる、だった。タイムラグはあるものの、こうして宣言すると脳が勝手に運んでくれる気がする。知らんけどな。

野崎まどさんの「小説」を読み始めた。これは面白い予感がする。フィクションならではの書き方ってこういうことなんだなと、少し読んだだけでわかった。

小説を書くということは人間を描くということだと、昨日届いた「物語のつくり方」に書いてあった気がする。なるほど、そんな神様みたいなことをするのが小説なのか、とちょっと烏滸がましくなる。もしかしたらこの世界も、誰かが作った物語の塊、だったりしてとか馬鹿なことを考える。いやでもありえなくはないか、なんて、それを小説にしたらおもろいかも、なんて、すっかり作家の頭になってきていることに嬉しさを感じる。

物語はシーンの連続でできている、ということに気がつけて良かった。というか知ることができて良かった。ストーリーはおおまか、だけどシーンは細やかに鮮明に。まるで登場人物のエッセイを書いているような気分になって、すごく楽しいかもしれないと思った。意外とエッセイを書き続けているのは、勝手に書く力を強くしなやかにしているのかもしれない。自分に嬉しくなる。心の中でなでなでする。笑う。

いつも話しかけてくれるパン屋の店員さんの息子さんっぽい人が隣に座っている。さっき親しげに話していたから、歳の差的にも息子さんかなと思った。イケメンやな、たしかにそのパン屋の店員さんも綺麗な感じだから、そりゃそうかと心の中で膝を打つ。もしかしたらいつも話しかけてくれるのは自分のことを息子のような感じで見てくれているのかもしれないと勝手に思う。その息子さんはちょうど僕と同い年かちょい下ぐらいかなと思う。

その店員さんが別の店員さんにその息子さんを紹介していて、その別の店員さんがキャハキャハしている。可愛いなと思い、いつもとは違う一面を見ることができて嬉しくなる。

午後になった。

ふとベッドに寝転がるわんこを見て、ああ、もうすぐで9ヶ月になるのかと思う。なんだか感慨深い。きたときは4ヶ月だったから、5ヶ月一緒に暮らしていることになる。今まで家族以外とそんなに一緒にいたことはない。でも、まるで今まで家族だったかのように生活していて違和感はなかった。違和感、というかそもそも僕が家族に迎え入れたわけで。なんだか言葉が見つからないけれど、いることが当たり前になっている。両親とは違う、「出会って」初めて家族になった存在。僕は毎日助けられているし、気付かされている。

朝井リョウさんの「イン・ザ・メガチャーチ」を読み始めた。実は朝井リョウさんのことはあまり好きではなかった。作家がメディアに出まくると、途端に僕はダサい印象を受けてしまって、作品を読む気になれない。朝井リョウさんのことを勝手に「ハックで書いている人」だと決めつけて、読まなかった。でも、本当にそれは間違いだった。

書店でなんとなくこの本を開いて、パラパラと読んだ、本当に3ページぐらい。すごく引き込まれた。現代的な文章で読みやすい、感覚もわかる部分がすごく多い、でもなんだか描写的な美しさとどこかユーモアもある。買おう、と思った。買って帰って、ソフトカバーを外すと、薄紫の綺麗なハードカバー、そして表紙には英語でタイトルが書かれていた。ああ、僕は間違っていたと思った。同時に、見てくれだけで判断してしまう自分が恥ずかしくなり、また同時にコントロールできないメディアというものは怖い、と思った。一気に40ページぐらいを読み、ふう、と一息ついて、色々なことを考えた。自分が置かれている環境の柵に目を瞑るわけではなく、もしかしたら作品に昇華しているのかもしれない、と思ったら、朝井リョウさんの本がすごく楽しみになる。一線で売れている作家だけれども、決して迎合していない一番反抗的な作家かもしれない。それでも作品をコントロールして、世の中に紛れ込ませる技術。頭が上がらないと思った。

夜になった。

小説を読むのは疲れるなあと、エッセイを読むことにした。くどうれいんさんの本をペラペラとめくって読んでいると、心が少しずつ緩んでいく。ああ、ありがてえありがてえ。

そういえば今日の朝、パン屋まで歩いていたら、後ろから歩いてきたおばさんたちがまるでユーチューバーみたいな会話をしていた。動画の締め切りがどうのとか、次の企画はとか話していた。シニアも動画投稿するんかと思って、時代の最先端だなあなんて思いながら、シンプルにどんな動画を投稿するのか気になる。多分2分ぐらい見て閉じるだろうけど。

最近、鳥の声が聞こえることが多い。何を言っているかはもちろんわからないが、鳥の声が僕の耳に入ってくる気がして、なんかちょっと嬉しい。特に朝と夕方わんこと散歩しているとき。木の上で何を思っているのだろうか、そこからどんな景色が見えるのだろうか、飛べるってどんな気分なのか。聞いてみたいと思いつつ、鳥との意思疎通の仕方がないことに落胆する。そういえば、鳥の言葉がわかるみたいな本が人気だって聞いた。買ってみようかなと少し思った。

夜になってコーヒーで一息。充電が完了したコーヒーミルが、思いの外大きな音を立てて豆を挽き始めたので、うおっ、と言ってしまった。コーヒーミルも充電されて嬉しいのだろうか。よしよし。いつもありがとうと言いながら、見守った。

一時期ピンバッチにハマったことがある。と言っても2個かってショルダーバッグにつけて満足して終わったのだが、文房具屋などでピンバッチを見ると高揚している自分がいた。キラキラしてしっかりしていて、可愛いものが多い。シンプルなイラストのピンバッチが好きだった。でも、つけてもつけても外れるから、もういいやと思って自分の中の流行は終わった。タクシーのピンバッチと友達のブランドロゴが入ったピンバッチを買った。あ、今更だけどピンバッ「ジ」なのかな。「チ」と「ジ」の使い分けがいまだによくわかっていない。可愛いから「チ」の方が好き。

最近、段落ごとに切り取って自分の文章をthreadsの波に乗せている。特に強い理由があるわけではないが、なんとなく誰かに届いて欲しいなと思ってやっている。エッセイを読んで欲しい、という気持ちはあるものの、なんかそれだけが理由ではない気がして、自分も成長したなと思う。

ソーシャルメディアに対して、基本的に僕は批判的な態度をとっていたが、ここ最近は仲良くなれている気がする。他の人が発信していても、それは考えてソーシャルメディア用に見繕って波に乗せているわけで、その人の核ではないということを認識してから、少し見方が変わった。そして、表面だけで判断しないようにしようとも思う。

なんか小説を書くと決めてから、少しタイピングに緊張が乗っているのは気のせいだろうか。え、感じてた?やっぱり?なんか今日、手がうまく動かない感じがあって、そういう日かと思いながらも、今まで自分が書いてきた小説が苦しかったのだなと実感させられる。でもだんだんふざけられるようになってきた気がする。エッセイが救ってくれている。