2026.02.05

まだ2026年という数字がしっくりきていないなと、書き始めて感じる。年の始まりとはそういうものなのかと、年が明けて1ヶ月ぐらいしか経っていないことに驚く。

年始は何をしていたかなと考えても、思い出せない。

のんびりしている朝だ。スピーカーから流れる音楽をピアノの曲にすると、心がすっと落ち着いてくる。久しぶりにこういう朝を過ごしているなあと、安堵する。

ベランダに出て、椅子に座ってコーヒーを飲んだ。朝の空気の匂いが体の中に入ってくるこの瞬間が好きで、つい朝は早起きをする。これはわんこと散歩に行き始めてから気がついたことだ。

そして、朝ベランダに出ると、定点で撮っている空をカメラに収めようと、上を見上げる。今日の雲は、龍の背骨みたいだった。龍ではなくて、背骨というところまで想像力が広がる自分に気がついて、なんだか誇らしくなった。青と白の空。いつ見ても、僕のことを生きている世界に連れて行ってくれる。

少し本を読んで、部屋の中に入って、窓を閉めようとすると、なんだか名残惜しい気持ちになって、手を止めてベッドの上に座った。窓を閉めると朝の空気が終わってしまう気がしたから、少し寒いけれどその場で空気を感じて、目を瞑った。寒さには勝てずに、窓を閉めた。

思い出すと辛い記憶は、日常で僕のことをチクチクと苦しめてくる。

それは相手に対する遺憾だけではなくて、自分にも悪いところがあるのだという罪悪感からも来る。本当にごちゃ混ぜな感情になり、その思考の勢いを止めようと、お香を焚いてコーヒーを飲む。もうその人とは縁がないのだから、考えるのはやめようと言い聞かせても、僕の日々に否応なしに入り込んでくる記憶。皆さんは、そういう記憶たちとどう、共存していますか。

朝のお風呂に入ると、一日が始まってしまう気がして、なかなか朝はお風呂に入ろうとしない。結局は入るのだが、朝風呂に入る前の、このしっとりとした、まだ少しだけ眠そうな体の感じが心地よくて。

久しぶりにカフェにパソコンを持ってきた。なんとなく書きたい気持ちが強くなっているのかもしれない。八百屋に行った帰りだから、リュックに入っている野菜が心配だ。でも、八百屋には空気に触れて置いてあるのだから、大丈夫かと気がつく。

刺繍を作り始めた。最近は感覚が落ち着いてきて、詩を書くにはちょうどいい心の状態だなと思った。そして何より、僕が書いた詩集を、忘れた頃に読みたいと思うから。

自分の本を読むことは、すごく贅沢で、他の誰にも真似することができない、かけがえのない時間だ。

書いている時の感覚を思い出しながら読むと、その時には感じていなかった感覚が生まれ、その時間にまた生まれたような気になる。

詩には不思議な懐がある。それは心の中にある、空気のような掴めないものに輪郭を与え、言葉にしてくれる。その時の感覚に合う言葉を見つけるように、僕は詩を書いている。

言葉を紡ぐという言葉は、僕は詩について使う。それが一番、しっくりくるから。エッセイは紡ぐというよりは、連ねる、つらつらのような言葉が近い。小説は編む。いや、編むよりももっと深く複雑で、「産む」かもしれない。小説は僕にとっては、少し壁が厚い。

そういえばさっき、結婚するならこんな人がいいなと思った瞬間があった。

別になんてことないことなのだが、洗濯物を畳むことが好きな人がいいなと思った。

僕は洗濯物を畳むことが苦手で、下着などの形があまり関係ないものは、ぐちゃっとボックスの引き出しにしまってしまう。母親が来ると、いつも整理して帰ってくれる。

苦手なことを、補い合える人がいいな、なんてことを思った。僕は、皿洗いが得意ですと、それがプロポーズになったりして。