たまに学生の頃がまだ続いているのではないかという感覚に陥る時がある。主に夢を見ている時なのだが、レポートに追われていたり単位を取るためにテスト勉強をしていたり、そういう感覚に襲われる。うん、襲われるという言い方が正しいな。
学生の頃は気付いていなかったけど、だいぶストレスだったというか、頑張っていたのかもしれない。当時、有名な地理の先生がいた。その先生は全く板書をせず、全部口頭でしゃべる。それを必死にみんなメモしていて、録音までして後で聞き返してまとめている人さえいた。極限のストレスだったなあ。「環太平洋造山帯、アルプス・ヒマラヤ造山帯」という謎のワードが今も思い出せるぐらい、当時は必死だった。なんやねんそれ、と思いながらも、真面目に僕もノートを取っていた。録音もしていた。今では考えられないぐらい真面目だった。大学の附属高校だったから、成績を取るために必死だった。だから今、良い意味で不真面目になれることは僕としては嬉しいこと。
前に行っていたカフェに久しぶりに行った。かなり通っていて急に年が明けて行かなくなったので、なんだかちょっと恥ずかしかったけど、普通に挨拶もできて安心した。
でもなんだか居心地が悪かった気がする。いつも行っているパン屋の方が、僕の中ではしっくりくるなあと思った。それはなんとなくパン屋の方が、自分のことを「ほっといてくれる感じ」がして、楽なんだと思う。そのカフェの方には申し訳ないけど、もうパン屋で執筆することに慣れてしまった。いや、別に謝ることではないか。
「他人事」という言葉が好きだ。僕と他の人との距離感を定義してくれている気がして、心への負担が減る。仲良くしなくていいんだ、別に近づかなくていいんだと思えるようになるのが、「他人事」という言葉な気がする。だから自分の身に起きていない関係のない世の中の出来事にはあまり興味がなく、それよりも何よりも、僕は僕の周りの人の人生のほうが気になる。仲良くなった人、何かを一緒にやっている人のことは追いかけたい性分だ。
それでも、日々の中で小さな幸せを見つけるときは、他人に目を向けている。今日も警察官の人が信号待ちをしていて、一方の人がもう一方の人のお尻を叩いていて、おいやめろよみたいなやりとりをしていたのを見て、ああ、今日も平和だと思った。警察官の人が気を許している街って、なんだか素敵だなと思った。あとは、今のカフェで隣に座っている女性二人が、知り合いの人の悪口みたいなのを言っていて、ああ発散していていいなあと思った。もちろん悪口は言わないほうがいいけど、本当に嫌だったこととか、この人ありえないって思ったことは我慢しないで言ってもいいと思っている。じゃないと自分が壊れてしまう気がするから。
そんな感じで、僕はいつも周り観察しては今日も世の中が動いていることを感じる。そして嬉しくなる。
夕方になった。なんだか書くことが億劫というか、書く気にならない感じなのは久しぶりだ。それでも書いているのはやっぱり好きなんだなと思いつつ、なんで書くことが億劫になるの考えてみると、日常が充実しているからなのではないかと思った。エッセイに囲まれ、暮らしを大切に料理もし、わんこもいる。そういう生活をしていると、書くということに「逃げ」なくても良くなる。前までは、僕に取って書くこととは逃げることだった。混ざる感情をどこかに出したい、そんなことを思いながら書いていた。
それが今は、日々の幸せや気づきを誰かに教えたい、というポジティブな理由から書いていることが多い。
そう言えばわんこの名前を今までのエッセイの中で伝えていなかった。うちのわんこの名前は「ぶりぶりうんちく、、、」あ、間違えた。ルゥちゃんである。今までルウちゃんのことを「わんこ」と一般呼称で呼んでいたのには、特に理由はない。ちなみにサブネームは「ぶりぶりうんちくん」だ。たまに呼ぶと、吠えられる。あんまり吠えないわんこなのに。