ベッドスパに行った。今日はいつもよりも終わった後の力が抜ける感じがあって、今カフェにいるのだがすごく気持ちがいい。ヘッドスパもなんだかんだで一年半ぐらい通っている。末梢神経系の病気なので、首肩がコリやすいのと、側湾症の手術で、特に首回りが固まってしまう。自分としてはほぼ治療みたいな感じで行っているが、いつも担当してくださる方の雰囲気が柔らかくて、心地のいい時間を過ごせている。ありがたい。
昨日、細切れに夜は三回寝たのだが、夢を三つ見た。いい夢、いい夢、悪い夢。最後のがパンチが効いていて、ちょっと朝からナイーブだった。
夢って不思議。自分が違う世界に行って、一通りのその中での物語を過ごして帰ってきても、現実世界では30分しか経っていなかったってことがよくある。でも、自分は頭の中でそれを経験しているから、記憶には残っている。目を瞑れば思い出せるその記憶は、とても曖昧で繊細だが、確かに夢の中ではそれが現実のように感じられる。とても不思議。きっと死んだ後も、そんな感じなのだろうなと思っているから、僕は死をあまり大きなことだと捉えていない。
よく、死生観がちょっと人と違うから生きやすいなと思うときがある。死生観というか、人生はなるようにしかならないだろうと思っているから、基本的にマイナスなんてものはないと思っている。そして、死ぬ時は死ぬと思っている。死んでも何かしらの形で、自分の世界は続くとも思っている。だから、何かしらで、自分の感覚は永遠に残るのだろうなと思っている。消えることはないと思っている。
そういうふうに考えると、出会いが尊く見えてくる。この人、つまりはこの命とは、この人生を歩んでいなかったら交わらなかったのだなと思うと、奇跡そのものだと思う。というか、日々の選択の一つ一つが集結して、今になっているって、普通に考えてやばすぎる奇跡だと思う。だからこそ僕は、日々生活することを大切にしているし、それだけで十分だとも思っている。
重くなりすぎないことも大事だと、この歳になって学んだ。
よく、出会いは奇跡だからということをやたらに誇張して、その概念にとらわれている人を見かける。それを僕は、机上の空論としか思わない。その感覚が前提にあって初めて、日々の具体的な生活が感動に変わるのだから、概念から抜け出せよ、と思う。
昔は、愛とか希望とか、そういうことに興味があったし、自己啓発的な何かを重んじることが正解だと思っていた。ただ、今は関西人二人が喋っているポッドキャストが大好きだし、カラムーチョを夜中に食べることが幸せだし、アイスコーヒーがうまいことしか考えていない。そういう、抜け感というか、この世界を面白がって楽しんでいる感じというか、そういうものが大事なのではないかと思う。
今日は、朝の散歩で雲が綺麗だった。いつもよりも30分ぐらい遅く出かけて、ゆっくり歩いていたのだが、坂から見た景色がなんだかジブリみたいで、和んだ。そういう何気ないことが、幸せなんだなと思って、2分後には忘れる。でも、それでいいと思っているし、何回でも新鮮な気持ちで感動すればいいと思う。あれ、なんか、いいこと言ってる?笑
お昼から時間が経って、今はわんこの散歩も終わって、十七時。ゆっくりカフェに来ている。結構前から頑張っている外国籍の方が、ついにワンオペっぽくて、ちょっとだけ嬉しい気持ちになる。なんだか頑張っている人って、応援したくなるというか、なんというか、不思議な気持ちになる。
そういえば、あまり映画を見ない。今日聞いていたラジオで、映画の話が出ていて、自分は映画見ないなあと思った。代わりにエッセイを読んだり音楽を聞いたりYouTubeを見たり。小説はたまに読む。でも本当にたまに。特にこだわりはないのだが、視覚的に文化を感じるものに、それも結構短い時間で受け取るものがあるものに手が伸びがちである。だから、音楽は昔から本当に好き。にしな、羊文学、TOMOO、きのこ帝国、くるり、らへん。この並びなら、同じような音楽が好きな人はシンパシーを感じてくれているはず。
映画は、小さい頃は見に行っていたが、大人になって全く行かなくなった。二時間半も同じところに座っているということ、ちょっと閉所恐怖症のようなところがあるから、圧迫されている感覚などが合わない。だから、家でダラダラ見ることは好きなのだが、大体15分ぐらい見たら飛ばして、違うものを見ている。先が気にならないとかではなくて、なんかそういう、自分が手を動かさないで見ることができるものに集中力は働かない。
そういえば、自分はなんで小説を書き始めたのかってことを話していなかった。最初はなんとなく、文章が好きだなあという理由から。書いていて、タイピングの音とか打ち込んで文字が増えていくこととか、そういうことがなんとなく好きで、始めた。でもそこから、有名になりたいという、ちょっと厄介な動機が生まれた。
自分は小さい頃、かなりいじめられていた。「足わる星人」とか「ゴリラ」と呼ばれて、小学四年生とかは毎日大泣きしていた。ランドセルで殴られたり、なんか散々だったな。でも人柄からなのか、いじめてくる人と同じ人数ぐらい味方してくれる人もいた。だから、「小泉さんをいじめないで!」と「おいゴリラ!」が混ざって、自分は何も言わないで泣いているという、なんかカオスな幼少期だった。
まあ、それもあって、承認欲求は強い。今は落ち着いたが、大学生~去年ぐらいまでは、マジでやばかったと思う。有名じゃないなら自分に価値はない、ぐらいに思っていた。そして一番は、幼少期にいじめてきた人を見返したいという気持ちが強かった。こいつ、大人になってからこうなったらしいよ、とか、そういう噂が広がって欲しいと思っていた。
でも最近、友達がCMを撮影したり、著書を出したりしているのを見て、特に何も感じていない自分に気づいた。成功している人を見て、羨ましいとも近づきたいとも思わない。ただ、「頑張ってるなあ」「元気かなあ」とかしか思わない。そこには、名声に対する基準はない。ただその友達の人としてのところとか、友達として思うことぐらいしかない。だから、どんなにすごくなろうとも、結局、うわ、こいつこんな成功したのかよ!もっと仲良くしておけばよかった!とかは思わないということがわかった。そう考えたら、自分が成功しても多分周りは変わらないだろうなと思った。そしたら、急に成功へのモチベがなくなった。そして最近の生活に至る。
そもそも成功とはなんなのだろうか。自分の人生しか見えないし、感じることができない。究極、他の人の人生があるのかもわからないのに、比べて競争しているの、多分人間ぐらい。うちのわんこは、今日も元気に走り回って、今はたった一人の家族である自分との生活にきっと満足し、お腹が空いたらご飯を食べる。