僕が大事に想う日は、虚しさだけでは終わらなくて、一番大切なものは大切にしたくて。でも、愛ってなかなか伝わりきるものではないとも、最近は感じている。
相変わらず生きることは難しいし、想いを伝えること、変わらずに愛の存在としていることは、大変。
上手くやろうとしたり、カッコつけようとしたり、慣れたことばかりをしようとして、立ち止まることがあってもいい。でも、汚れた鏡に問いかけた時に、大人になりたい、もっともっと自由になりたい自分が、ずっとずっと、心の中に確かにいた。
ずっと楽しみにしていた、麻布十番ハルモニアでの子ども食堂の、おえかき教室が、6月15日に無事開催を迎えました!
特にめちゃ準備したとかそういうわけではないけれども、始まってみると子供達の自由な表現に、色々と感じるものがあった。

最近は、なんだか、色んなものを形にしようとしすぎていたなぁと、ちょっと反省もした。
好きな人と、名前のついた関係性ばかりを目指したり、自分の夢が叶うことは何か賞をもらったりすることなんだと、心のどこかで思っていた気がする。
それは、自分が今まで願ってこなかったことだからこそ、噴火のように最近溢れてしまって、みんなにはびっくりさせてしまったかもしれない。自分でも、「ない」からくる不安や衝動で色んなことをして、結果的に心が苦しくなってしまっていた。
それがなんだか、今日の子ども食堂で溶かされた気がする。ただそこに命がある、ただそこで笑っている命がある、それだけで、なんかもう全部いいなって思った。

もしかしたら僕たちは、結果や形にすることを求めすぎているのかもしれない。そして、その形にするまでの過程を全て無かったことにしてしまいがちなのかもしれない。
心がないところでは花は咲かないし、そもそも愛がない場所には命は集まらない。思いの丈が集うということは、そこに愛がある証拠なのかもしれない。

いつも通り笑っていられればそれでよくて、それ以上でもそれ以下でもなくて、ただそこに花が咲いているのをみて、ワクワクすること。
窓から見える下の車。スポーツカーだ!とか、バスだ救急車だとか、そんなことを言い合って、笑い合っていれば、それだけでいいということ。

笑いながら、絵を描いて、みんなで同じ場所に居られること。ただそれだけで、命が喜んでいることを、今日感じられた。
少しだけ、恥ずかしいとか、苦しいとか、気まずいとか、そういう気持ちも、最初の方はあったけど、相手のことを信じて、身を委ねて心に任せて、話して愛して表現したら、みんな自分のことを好きになってくれた。
きっと人生は、それでいい。