【エッセイ】今夜もハイボールにしよう。

この本を読んでいると、自分の部屋の空気まで少しだけ変わる気がしました。ホットコーヒーの香りの書き出しって、少し照れながら言っているのに、その照れがあるからこそ本物で、読んだ瞬間に「あ、今日はこういう温度の本なんだな」と体が勝手に理解してしまうんです。真面目になりすぎないけど、ふざけてもいない。生活の中にある、ちょうどいい静けさと、ちょうどいい人間味。そのバランスが、この一冊には最初から最後まで流れています。

この日記には、いろんなものが出てきます。わんこのルームウェア、丈が足りないカーテンの隙間風、年末のパン屋の「今年もありがとうございました」、深酒して顔がぱんぱんになった朝、角ハイの瓶と炭酸水、マッチの「ぼっと」つく火、花屋で買った黄色いユリの蕾、能登のことを思い出すテレビのロケ、実家のすき焼きと父の一言、母が焚いた微妙なお香、そして正月の家で流れる「さんタク」。どれも別にドラマじゃないのに、どれも「生きてる」って感じがする。むしろドラマよりこういう断片の方が、生活の心臓の音に近いのかもしれないと思いました。

わんこと暮らす時間が、この本の中でちゃんと「季節」になっているのも、すごく良いです。寒くなったから服を着せる、震えていたからダウンを着せる、ヒーターを買って低温火傷を心配しながら消したりつけたりする。これって、ただの可愛いペットの話というより、完全に「守る側の生活」なんですよね。自分の快適さの前に、小さな命の体温が来るようになっていく。その変化が、説教くさくなく、むしろちょっと笑える日常の中で進んでいくから、読んでいてすごく自然に胸が温かくなります。家の中で「ぶりぶりうんちくん」と呼んでいるくだりなんて、そのまま人間の可愛さで、こういう一行があるだけで、読者は肩の力が抜けます。

それと、この日記は「大人になっていく感じ」が、ちゃんと生活の形で出ているのが好きでした。シルバーのベルトの時計を買って、お父さんしかつけないだろと思っていたのに自分がつけていることにしみじみするところ。リングやメガネを買って、テンションが高いんじゃなくて気分がいい、という言い分けみたいなニュアンス。ネイルを始めて、静かなグレーの爪にして、手元が整うだけで日々の温度が変わる感じ。こういうのって「成長」とか「変化」とか言葉にすると急に嘘っぽくなるのに、この本は買い物や身だしなみの話として、さりげなく書いてしまう。だから信用できるんだと思います。大人になるって、たぶんこういうことの積み重ねなんだな、と。

僕は、店員さんの話がとても好きでした。物が良くても感じのいい店員さんじゃなかったら買わない、という価値観もそうだし、新卒っぽい店員さんが一生懸命にベルトを調整してくれて、その待つ時間まで愛おしいと感じられるところも、すごくこの本らしい。ここには「人柄が大事だ」という結論があるんじゃなくて、「人の丁寧さに触れると、自分の中の荒れが静かになる」みたいな体験がそのまま置いてあります。読んでいる側も、ちゃんとそれを受け取ってしまうんです。

年末年始の章は、静かなのに、世界が一気に広がっている感じがします。年末のパン屋の一言で一年の終わりを意識したり、空にぼんやり飛ぶ飛行機の光を見て時間が止まったみたいに感じたり。地震のことを「忘れていた」と正直に書いたうえで、それでも今の自分には家族を失うことが悲しいと感じられるようになった、と書くところ。きれいごとにまとめないで、忘れていた自分も含めて書いているから、言葉が強くなる。読んでいて、「こういうふうに書ける人は、ちゃんと日々を見ているんだな」と思わされます。

面白いのは、何かを始めて、しっくりこなくて、すぐやめるところまでちゃんと書いていることです。YouTubeを始めたけどチャンネルを削除した、違和感を感じたらやめる主義だ、という話。これ、普通はかっこ悪いこととして隠す人が多いと思うんです。でもこの本では、やめたことが「逃げ」じゃなくて「自分のリズムを守る行為」として描かれている。読んでいると、何かを続けられない自分を責める気持ちが、少しだけほどけます。続けることが偉いんじゃなくて、合う場所を選ぶことが、生き方なんだなと。

あと、細かいところだけど、食べ物の描写がいいです。味噌ニンニクと食べるラー油でパーティーするとか、サッポロ一番が微妙だったとか、すき焼きの肉を「食べ放題みたいに食べないで」と父に言われるとか。味の感想がグルメじゃなくて、生活者の言葉なのがいい。食べたものの記憶が、その日そのものの記憶になっていて、ページがぐっと近づいてきます。

この一冊を読み終えたときに残るのは、「頑張ろう」じゃなくて、「今日はちゃんと生きたな」という気持ちに近いです。人間関係を狭めようとか、合わない友達から離れようとか、そういう決断も出てくるけれど、それがギラギラした自己啓発にならない。むしろ、わんこの寝息や、花屋のユリの蕾や、マッチの焦げた匂いみたいなものに支えられて、静かに決めている感じがする。その静けさが、この本のいちばんの魅力だと思いました。

読み終えてから、部屋の窓を少し開けたくなります。空気を入れ替えて、コーヒーを淹れて、わんこが隣で寝ていたら、それだけで十分だと思えるような、あの感覚に近づきたくなる。派手な感動はないのに、生活の輪郭だけが少しだけくっきりする。そんな本です。